私文書の落し穴 事例その3

3.借用書はあるけれど

私は九州の、とある県庁に勤務している。以前いた部署の元上司と昼休みに食堂で会った。その元上司は5年前私達が結婚式を挙げる際に仲人をしてもらった人でもある。「帰りに一杯どうや」という誘いがあった。その日の夕方、居酒屋で久しぶりに昔の仕事の話をした。「夫婦喧嘩はしとらんか」という温かい言葉も掛けてもらった。ところが急に「頼み辛いんだが、ちょっと金を貸してくれんだろうか」と元上司が言った。「おいくらですか」と尋ねると「300万円ばかりだ」という返事だった。「300万円、とてもないですよ。そんな大金、いったい何に必要なんですか」と尋ねてみた。「実は先日、飲酒運転で接触事故を起こし、示談金として必要なんだ」と言う。飲酒運転なので保険がきかないらしい。「いや300万じゃなくてもいいんだ」と言いながら元上司は深々と頭を下げるのであった。元上司には仲人もしてもらったし、仕事でもたいへんお世話になった。「200万円なら」とつい言ってしまった。この200万円は数年後マンションを購入するために夫婦共働きで貯めたお金である。「僕はあと2年すれば定年となり退職金も入る。2年後にはちゃんと利息を付けて返すから。ちゃんと借用書も作るし、迷惑は絶対掛けないから」と元上司は少し照れ笑いをしながら話した。「この件は君の嫁さんには内緒にしておいてくれ」と頼まれながらその日は別れた。

200万円の件で酔いもすっかり醒めてしまった。家に帰っても嫁さんの顔をまともに見ることができなかった。その翌日、銀行で200万円の定期預金を解約して、昼休みに喫茶店で元上司と会った。元上司はワープロ書きの借用書を見せてくれた。「借用証 金200万円、確かに借り受けました。返済期限2年後、利息年5%」と書いてあった。「利息なんか要りませんよ」と伝えた。「いや、利息ぐらいちゃんと払わしてくれ」と言って、元上司はちょんと頭を下げて、200万円が入った封筒を受け取って店をすぐ出て行った。

それから半年後、元上司が今月末で退職するという噂を耳にした。噂は、借金で首が回らなくなって精算するらしい、奥さんとも離婚して家を出てゆくそうだ、というものだった。そんな話は聞いてない。このままだったらとあと1年半後の返済予定の200万も返って来ない可能性が高い。元上司を5時過ぎに県庁の出口で待ち伏せして確認してみた。「急な話で申し訳ない、今月末で退職するんだ。君から借りた200万円はちゃんと1年半後には返済するから心配しなくていい」との返事だった。「利息なんか要りませんので退職金で全額返済して頂けませんか」とすがるような思いで頭を下げた。しかし「それはちょっと無理だな。退職金は全て嫁さんに渡すことになっているんだよ」「君らの仲人までしたんだ。迷惑なんか掛ける訳がないじゃないか」と半分開き直り気味に言うのであった。「それじゃ急ぐんで」と元上司はそそくさと帰ってしまった。

ある休日、デパートの片隅で行政書士の無料相談会が開かれていた。事情を説明すると、「回収はかなり厳しいかも知れません」という冷たい回答だった。「もし貸す際に金銭消費貸借契約公正証書を作成し、途中退職の場合は一括にて支払うという条項でもあれば、差押えも可能だったでしょう」というアドバイスだった。公正証書が必要なのか、借用書さえあれば何とかなるんじゃないのか。あと1年半、どんな気持ちで待てばよいのか。嫁さんには、いつ、何と言って説明すればいいんだ。

※以上の事例は、私文書に関するトラブルを理解しやすいようにするためのフィクションです。