自筆遺言書の落し穴

2.自筆証書遺言のその後

私は昨年末まで内縁の夫(彼)と彼の家に同居していた。二人共に子供はなく離婚歴があり、正式に結婚することを何となくためらっていた。しかし彼は私をとても大切にしてくれた。本当の夫婦以上の関係だったと言っても良い。

同居期間がもうすぐ10年になろうとしていた昨年の5月のある日、彼が沈んだ顔をして帰って来た。会社の健康診断で要精密検査の判定が出たとのことである。「実は昨年もそうだったのだが、怖くて精密検査には行かなかった」と今頃言うのであった。それから1週間後、私は彼を連れて大腸肛門センターという大腸がんの専門病院へ行った。精密検査の説明を二人で聞くことになった。「残念ですが、末期の大腸がんです。これまで血便とか便秘などの予兆はありませんでしたか」と医者は、静かに言った。彼は、「血便は痔かなと思っていました。便秘は時々ありましたが」とぼそぼそと答えるのが精一杯だった。手術をしても手の施しようがないだろうという説明だった。「入院をして抗がん剤を投与すれば余命半年が1年ぐらいには延びる可能性はあります。ただ、辛い闘病生活と経済的負担が必要になります」という、淡々とした説明が医者からあった。「二人で相談してまた来ます」と言ってその日は帰った。その日の夜は家に帰っても二人とも食事ができなかった。私は涙をこらえるのが精一杯だった。

それから1週間後、彼が会社から早めに帰って来た。そして、「会社は今月で辞めることにした、残りの半年は二人でゆっくり暮らそう」と言ってくれた。また、抗がん剤による治療はしたくないそうだ。彼の希望通りにさせてやるのが一番だ。また、「この家は君にやるよ。ちゃんとした遺言書も公証役場で作ってもらうからね」とも言ってくれた。一人残される私としては、住む家があるだけでも少しは安心だ。しかしその後、公正証書遺言は作成費用が5万円ほど掛かるらしいので、費用の掛からない自筆証書遺言でも良かろうということになった。

それから半年後のクリスマスの日、彼は自宅で眠るようにして亡くなった。葬式には彼の兄弟が3人来てくれた。葬式が終わった後には、一番上の長男は、「この家はいくらぐらいするかのぉ」と信じられないことを言っていた。「売ったら、2000万円ぐらいはするかも知れんなぁ」と、別の兄弟もわざと私に聞こえるような声で言っていた。私はただ黙っているしかなかった。

年が明けてから、遺言書を持って市役所の市民相談室へ行ってみた。相談員は、自筆証書遺言は家庭裁判所での検認という手続が必要だから裁判所へ行くよう教えてくれた。その足で、家庭裁判所に行くと、無愛想な事務員が、「被相続人(彼)と両親の生まれてから死亡までの戸籍謄本と兄弟の戸籍謄本、附票を全て揃えてください」と説明してくれた。また、「遺言書には封印がしてあるので勝手に開けたらいかんですよ」とも忠告を受けた。「兄弟の名前も全ては知らないのに、どうやって戸籍など揃えるんですか」と尋ねてみた。「ご無理でしたら、知り合いの弁護士さんか司法書士さんに頼まんですか」という、つっけんどんな返事が返って来た。

裁判所を出て、とぼとぼと帰る途中に、MS司法書士事務所という看板が目に入った。自然と吸い込まれるように事務所の中に入った。「どのようなご用件ですか」とメガネを掛けた男の人が出て来た。これまでのいきさつを説明した。「お願いするとしたら、いくらぐらい掛かりますか」と尋ねてみた。「最初、調査料として5万円ご用意頂けますか。あとは相続人の数により場合によっては10万円ほど追加で必要になるかも知れません」という返事だった。15万円、私の2か月分の生活費だ。「考えときます」と言い残してその日は帰った。

そのままにしておくこともできず、数日後5万円を持って司法書士事務所へ出向いた。「今後どうなりますか」と尋ねてみた。「相続人調査に3週間ぐらい掛かるでしょう。それから検認の申立てをすると1月後ぐらいに全ての相続人が裁判所に呼ばれます。そこでようやく検認があります」。「上手く行って2か月でしょうか。ただ、この遺言書でもって必ず登記ができるかどうかは分かりません」。「何でそんなことになるんですか。遺言書があれば名義変更登記ができるんじゃないんですか」と少し興奮しながら質問してみた。「自筆証書遺言だから仕方ないんですよ。今時点では、有効な遺言者かどうかも分かりません。裁判所での検認は、簡単な手続ではないんですよ。ちゃんとした公正証書遺言であれば、すぐにでも登記はできたんですけどね」という説明だった。あの時、無理に頼んでも公正証書遺言を作ってもらっていたらこんな苦労はしなくて済んだのか。

それから20日後、司法書士事務所より電話があった。法定相続人は外に7名だそうだ。兄弟の内、2人が先に亡くなっており、その子供たちも代襲相続人になりますという話だ。やはり、あと10万円必要だそうだ。この先どれだけの日数が掛かるのか、確実に登記できるのかと考えると夜も安心して眠れない。「あの時に5万円用意していたら・・・」と今さら後悔してももう遅い。

※以上の事例は、私文書に関するトラブルを理解しやすいようにするためのフィクションです。

>>> 私文書の落し穴 事例その3